マナースタイル★MannerStyle★

ビジネスコンサル兼マナー講師が、「マナー」「礼儀」「作法」「しきたり」の由縁について、調べたことをまとめたブログ。単なる備忘録です。

都合の悪い事を水に流すようになったのは、八百万の神との結び付きにも由縁があるような気がする

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通勤途中の駅で、

「その事は一切水に流して忘れるから、もういいから!」

と、大声で電話している女性がいました。

ただならぬ雰囲気に、周囲の人たちも驚いた様子でした。

他の事に意識を逸らそうと思い、持っていた本を読み始めたのですが、電車に乗ってからふと気になって「水に流す 語源」とスマホで検索してしまいました。

そんなわけで今回は、都合の悪い事を水に流すようになった理由について書いてみます。

 

 

 

 

水に流す行事

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日本では昔から、都合の悪いものは水に流して忘れてしまうという、便利な知恵を持っていました。

たとえば、流し雛や精霊流し、七夕流しといったものは、罪や穢れを水に流す行事です。

他にも、端午の節句に行う菖蒲湯や、冬至の柚子湯も、本来は水に流す禊の意味が込められた行事でした。

東北のねぶた祭りも、収穫作業を妨げる睡魔を流す儀式が起源とされています。

穢れを祓い清めることを目的として水に流すのは、神社の参拝作法にもあります。

穢れが残ったまま神聖な場所に入るのを避けるために、手水舎で手と口を清めて参拝します。

 

【水に流す理由】気候風土と共同作業

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日本人は、なぜ都合の悪い事は水に流して忘れてしまおうとしたのか、考えてみました。

理由の1つに、日本の気候風土と共同作業の文化が関係しているようなな気がします。

日本の気候は、四季の変化に富んでいます。

その変化に合わせて、米をはじめとした農作物を共同作業で栽培してきました。

そんな共同作業が大切な社会で、過去の罪をいつまでも引きずるのは無理があったんだと思います。

重い罪を犯した人は、村八分になることもありましたが、ある程度の罪であれば季節の節目節目でけじめをつける考え方が浸透していたんだと思います。

日本の暮らしやすく人に優しい気候と、共同作業の文化が根付いていたことが、水に流すという考え方に繋がったのではないかと思います。

 

【水に流す理由】神との結びつき

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もう1つ、神との結びつきも、水に流すことが受け入れられた理由ではないかと思います。

厳しい自然環境で暮らすイスラム教圏やキリスト教圏の国では、神との契約を戒律と表現し、戒律を破った者に対して厳しく罰することがあります。

対して日本では、八百万の神とうまく付き合うことが求められていました。

八百万の神に対する信仰は、自然信仰が元になっています。

自然は豊穣の恵みを与えてくれます。

反対に、不作や疫病、祟りをもたらすものでもあります。

弥生時代から稲作をなりわいの中心としてきた日本人にとって、自然は優しい面と恐ろしい面を持つものでした。

そんな自然の姿を八百万の神として信仰しましたが、イスラム教やキリスト教の神とは異なる信仰の仕方をしていました。

八百万の神の機嫌を損ねないようにすれば、豊穣を与えてくれる。

反対に機嫌を損ねてしまうと、不作や疫病をもたらすと考えられていました。

そのため、八百万の神への信仰は、神との契約ではなく、神とうまくお付き合いするという意味の強いものだったと思います。

神とうまくお付き合いするためには、たとえ不作や疫病が発生しても、神の機嫌を更に損ねないようにする必要があったと思います。

起こってしまった悪い出来事は水に流して、次に予定されている儀式に目を向ける必要があったのではないでしょうか。

 

八百万の神

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八百万の神とは何なのか、それは、太陽、月、山、川、里を始めとした、自然界や動植物への畏怖の心だったんだと思います。

自然の中には、たくさんの不思議がありました。

そして自然には、霊魂が宿っていると考えられてきました。

八百万の神は、「マレビト(客人、客神)」とも呼ばれていました。

その姿は恐ろしく、異形の相をしていると考えられていました。

異形の姿をしているのは、人々の不幸や病気を一身に引き受けていたため、そのような姿になってしまったと考えられています。

また、自然だけではなく、各家それぞれにも氏神がいると考えられてきました。

各家を護る神は、氏神、お宮さん、鎮守、産土(うぶすな)なと、地域によって様々な名前で呼ばれていました。

こうした神々は、一神教の神とは違い、必要な時に山から降りてきてくれる存在でした。

 

八百万の神の依代

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日本には古来、八百万の神や氏神とうまくお付き合いをする風習がありました。

春には豊作を祈願し、夏には夏祭りや雨乞いの儀式がありました。

秋には収穫を感謝し、冬には年末年始に1年の無事を感謝する行事がありました。

八百万の神は、降りてきてもらう位置をちゃんと示さないと、迷って降りてこれないと考えられてきました。

そのため、神のための「依代(よりしろ)」を立ててお迎えしてきました。

これは、正月飾りの門松や七夕の笹、お月見のススキなど、儀式によって異なります。

神を迎えるための依代は、四季の変化に合った植物が使われていました。

八百万の神は、それら依代の青々と繁った葉に向かって、ゆらゆらと揺れながら降臨すると考えられていました。

八百万の神が降りてこられるのは、日暮れから夜にかけての「月の出の時間」と考えられていました。

そのため、月が一番暗く見える新月の夜には、人々は外出を避け、神社や特定の場所に集まり、月の再生を願う風習もありました。

 

水に流せるもの

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生きていく上で大切な、自然や働き手のもたらした不幸な出来事に関しては、昔から「水に流す」ことが行われてきた気がします。

自らの不始末を、「一旦水に流して、新たな気持ちで邁進します」なんて言うのは、本来の意味とは異なるのかもしれません。

水に流すという言葉の由縁を調べてみたら、そんなことを考えてしまいました。

 

 

 

参考文献

広辞苑 第六版 (普通版)

三省堂ポケット 故事成語辞典 中型版

八百万の神々の謎 (祥伝社黄金文庫)