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マナースタイル★MannerStyle★

ビジネスコンサル兼マナー講師が、「マナー」「礼儀」「作法」「しきたり」の由縁について、調べたことをまとめたブログ。単なる備忘録です。

「鬼門」と「裏鬼門」に、結界を張り巡らせることで災禍を封じようとしてきた人達

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昨日は桃太郎の解釈について記事を書いたのですが、その中で鬼門や裏鬼門に触れた部分がありました。

 

www.mannerstyle.jp

 

鬼門について、大辞林には

  1. 陰陽道で、邪悪な鬼が出入りするとして万事に忌み嫌われた艮(うしとら・北東)の方角。また、その方角にあたる場所。
  2. 行くと悪い事に出会う場所。また、苦手な人物や事柄。「あそこの家はどうも鬼門だ」「数学は鬼門だ」。

と解説されています。

このブログも、鬼門を避けて運営しています。

そんなわけで今回は、鬼門と裏鬼門について少し書いてみます。

 

 

 

鬼門の由来

歴史由来説

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鬼門の由来については、いくつかの説があります。

まず挙げられるのは、歴史に由来があるという説です。

紀元前3世紀から5世紀にかけて、中国の北東には匈奴という騎馬民族がいました。

匈奴はたびたび中国に侵攻し、殺戮や略奪を繰り返していました。

そこで秦の始皇帝は、延べ2800キロにも及ぶ万里の長城を築き、匈奴の攻撃から国を防衛しようとしました。

当時の中国の人々にとって、鬼のような匈奴が襲ってくる北東の方角は忌み嫌われていました。

これが、鬼門の由来になったという「歴史由来説」です。

 

山海経由来説

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中国最古の地理書と言われている『山海経』という書物があります。

 

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

 

 

この中に書かれた逸話が、鬼門の由来になっているという説があります。

中国東方に、度朔山(とさくざん)という山がありました。

山の上には、3千里に渡って枝を伸ばした桃の木があり、北東の隅にある枝は門のような形をしていました。

そこからさまざまな鬼が出入りするため、鬼門と呼ばれていたそうです。

その地に住む人たちが、鬼の横暴に悩んでいたところ、神荼(じんだ)、鬱壘(うつるい)という兄弟が現れました。

兄弟は、悪鬼が来た際は葦でできた索で縛り上げ、虎に食わせました。

こうして、その地の平穏が保てるようになったそうです。

この逸話が元になって、北東の方位が鬼門と呼ばれるようになったという「山海経由来説」があります。

 

裏鬼門

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北東が鬼門(表鬼門)と呼ばれていたのに対して、南西は裏鬼門と呼ばれています。

鬼門と同じく、裏鬼門も忌み嫌われていました。

その理由は、農業にとって大事な春から秋にかけての時期に、南西から激しい季節風や偏西風が吹くことによって、農作物が荒らされることがありました。

災害をもたらす自然の驚異に対して、忌み嫌う考えが生まれたという説があります。

 

日本の鬼門思想

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鬼門思想は、中国から日本にも伝来しました。

でも、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは異なっています。

中国の風水には、鬼門思想はないとされています。

日本で独自に発展した陰陽思想の中で、鬼門に対する考え方が出来上がったと考えられています。

 

都と鬼門

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日本に鬼門思想が伝わったのは、奈良時代だと言われています。

当時鬼門を一番恐れていたのは、桓武天皇だったようです。

桓武天皇が天皇に即位するまでに、井上内親王、他所皇子の幽閉・憤死事件がありました。

その後疫病が流行り、桓武天皇も病気になってしまいます。

これを、当時の人々は井上内親王・他所皇子の祟りだと考えていたようです。

祟りから逃れるために、桓武天皇は都を平城京から長岡京、平安京へと遷都を繰り返します。

もちろん、政治的な意味合いもあったと思いますが、当時の人達は祟りに対して、今以上に恐れていたのが大きな理由になっていたと思われます。

 

陰陽思想と平安京

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桓武天皇が遷都した平安京は、陰陽思想において最も都にふさわしい場所でした。

東に川、西に大きな道、南に池、北に山がある場所が、陰陽思想においては最も都にふさわしい場所とされていました。

平安京も、東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池(おぐらのいけ)、北に船岡山があり、その条件をすべて満たしていました。

平安時代になって、四神相応の地という考え方が中国から伝来しました。

東西南北それぞれの方角に、そこを守る四神が棲むという考え方です。

平安京の場合は、東の鴨川には青龍、西の山陰道には白虎、南の巨椋池には朱雀、北の船岡山には玄武が棲んでいると考えられるようになりました。

平安京の御所にも、北東の鬼門に対しては鬼門封じが行われました。

「猿が辻」と呼ばれる、御所の周囲にめぐらされた塀の北東の角が欠けたようになっているのが、鬼門封じです。

北東の塀の上には、御幣を持った木彫りの猿が祀られていました。

また、御所の北東には猿田彦神を祀る幸神社、赤山大明神を祀る赤山禅院が建てられ、鬼門封じをさらに強化しています。

どちらの神社にも、猿の木像があります。

当時、猿は魔除けの象徴とされていたようです。

 

平安京と清明神社

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何重にも鬼門封じが施された平安京は、結界を張り巡らせた都だったと言えると思います。

それでも不安だったのか、要所にはその時代最強と謳われた陰陽師を配置しています。

陰陽師として有名な安倍清明も、内裏の鬼門にあたる場所に屋敷を構えていました。

現在にも残る清明神社は、その屋敷跡だとされています。

 

都市計画と鬼門

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平安京以外にも、都市計画で鬼門封じが行われてきました。

鎌倉時代になると、鎌倉の幕府から鬼門の方角に荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)が、裏鬼門の方角に本覚寺夷堂が建てられました。

江戸時代には、江戸城から鬼門の方角に僧・天海による東叡山寛永寺が、裏鬼門の方角に三縁山広度院増上寺が建てられました。

鎌倉幕府や江戸に侵入する災禍を、寺社を配置することで防ごうとしたようです。

 

現代における鬼門

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現在も、家を建てる際は鬼門を気にする風習が残っています。

家の中央から見て、鬼門に当たる方角に玄関を設置したり、トイレ・台所・風呂など水を扱う場所を置くことが忌み嫌われている場合が多いようです。

同じく、南西の裏鬼門にも、玄関や水回りを設置することを嫌う場合が多くあります。

 

鬼門が持つ、もう1つの意味

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鬼門とは、本来陰陽思想において呪術的な意味を持つ言葉でした。

最初に挙げたように、現在は「よくない結果が起こりやすい事柄」に対しても、この言葉が用いられるようになっています。

方角に限らず、場所、時間、特定の事柄を指す使い方がされています。

冒頭にも書きましたが、私もこのブログを運営するにあたり、鬼門を避けるように心がけています。

そのことにも触れてみようと思っていましたが、長くなりそうなので次の機会に書いてみます。

 

参考文献

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

中国の神獣・悪鬼たち―山海経の世界 (東方選書)

中国の世界遺産 (楽学ブックス)

「馬と黄河と長城」の中国史―興亡の歴史を新たな視点から探る (PHP文庫)

現代に息づく陰陽五行【増補改訂版】

易経〈上〉 (岩波文庫)

儒教入門

易、風水、暦、養生、処世 東アジアの宇宙観(コスモロジー) (講談社選書メチエ)

平安京はいらなかった: 古代の夢を喰らう中世 (歴史文化ライブラリー)

新史論/書き替えられた古代史 6 呪われた平安京と天皇家の謎 (小学館新書)

平安京は正三角形でできていた! 京都の風水地理学 (じっぴコンパクト新書)

平安京遷都〈シリーズ 日本古代史 5〉 (岩波新書)